昭和48年02月25日 朝の御理解



 御神訓 一、「神の恵みを人知らず、親の心を子知らず。」

 神様のお恵みを、私共がいよいよ広く、いよいよ深く分からせて頂くと言う事が、信心であります。神様のいわゆる御恩恵というものが、分かれば分かる程有難いというものは、それに伴うてくるもの。その有難いという心に又おかげは、限りなく頂けるものなのです。これは信心の心得心掛けとしてです。絶えずこゝの所の信心を思うておかねばなりません。天地の御恩恵に浴しない事は、一言とてもありませんのです。
 それをおかげをおかげと悟らせて貰う。知ると言うよりも悟らせて貰う。そこから有難い勿体ないと言う事になってくる訳です。神の大恩を知れば子孫も続き、所謂家繁盛、子孫繁盛のおかげが受けられるとまで、迄極言しておられますですね、御理解にありますね。所謂神の大恩を知れば、何故子孫も続き、大繁盛のおかげになってくるかと。だからこゝんところは、神の大恩を知ると言うだけではなくて、悟ると言う事だと思うですね。知るというだけなら、話を聞いただけでも、成程そんなもんかなと、すぐ分かるんですけれども。それを悟らせて貰う所に、一掬いの水に対しましても一粒のお米に対しましても、どう言う事柄に対しましてもです。神様の御働きであり、神様の御恩恵のものであるという事が悟れた所から、お礼心と言うのが感謝の心いうのが湧いてくる。
 その感謝の心その心におかげがあるのです。成程子孫繁盛、家繁盛のおかげが受けられるという事が分かります。だから心掛けとして私共はそういう、分からせて頂いた事に対して、お礼を言う心というものが、いつもなからなければなりません。今朝、御神前で、「無月」と大きく頂いた。無月月が無い。月のうち何日ですかね、月の無い日があります。いわゆる闇の夜という時があります。
 これは信心をしておっても、信心をしてなくっても、それは有ります。一日のうちにでもあります。又月のうちにもあります。ですから心が暗くなったり、又はもう本当に無明の悲しさ、明かりの無い悲しさにひたる程しの時も、人生のうちには何回も有ります。そういう時にです、私共が信心を頂いておく。光を頂いておく信心のいわゆる光明を、心に受けておくと言う事がだから大事なのです。
 小倉の桂先生の御教のなかに、「月入らば、また輝ける日の出かな」という是は、非常に意味の深い御教、俳句としても素晴らしい句だと思います。御神前で神様から頂かれた御教です。「月入らばまた輝ける日の出かな」どんなに真っ暗になるような事があっても、それこそ眼の前が真っ暗になるような事があっても。必ず、真っ暗になった時には、次の日の出の有る証拠だと。元気を出して、しっかり信心をせいよと、いう事でしょうけれどもです。
 そんなら私共が信心の徳というか、光を心の中に頂いておりますとです。眼の前が真っ暗になっても、普通でいうなら泣きの涙でなからなければならない時でも、それはしみじみとした、お礼心というものが湧いてくるです。いうなら真っ暗闇でも大きな光を持っておれば、一つも不自由な事はないです。ですからどうでも私共は、信心の光を頂く事の精進をしておかなければならない。昨日はそこん所を、お徳を頂いておかねばならんと言う事でしたですね。
 もう本当にそうです。それこそ激動する社会情勢と言った様な事をです。思います時に、本当にこれは有る宗教の方達が、必ず世界が地球上の生物がね、なくなってしまうような時期が必ず来ると言う。けれどもこの宗教をしとる者だけは助かると言った様な、極端な表現をしておる宗教があるそうです。けれども私はこの事もね、あながち嘘ではないと思うです。例えば計算的にいくと三十年後には、地球上の人間がどうなるか分らんと言った様な計算になってくるのだそうですから。
 だから私は例えば、それはどうと致しましてもです。それこそ昨日の御理解の中に、その事を頂きました。高英夫さんの歌ではないですけれども。雪の降る町をと言う、あの御理解を頂きましたよね。たとえどう言う様な、地球が冷えきってしまうような事になりましてもです。そんなら私共心自体の中に、温かぁいお徳というか、光というものを頂いておけば、助かると言う事になるでしょうが。
 だから只信心を頂いておくというだけではなくてです。信心によってお徳を受けておかなければならんと言う事を、私は力説したいですね。昨日はその事を私は皆さんに聞いて頂いたつもりです。とても忙しさにかまけておるような事では、徳を受ける事はありません。もう信心の時間をたっぷり、一つ頂きたいと思うですね。それで立ち行くならそれで有難いじゃないですか。
 人が十時間働く所を五時間働いて、より以上のおかげの頂けれる道があるとするなら、それの方がいいじゃないですか。肝心要の信心を本気でさせて頂いて、力を受けておこう、光を受けておこうと言う。世の中がどんなに、真っ暗に成る様な事があっても、信心の光を持っておる者だけは、それこそ雪の降る町をと言う、あの歌の雰囲気から感じられる、何ともかんとも言えん、素晴らしさというものをです。
 そこに感じ取る事が出来る。その為に私共が本気で、神の恵みを知るというのでなくて、神の恵みを悟らせて貰うと言う事です。昨日は中島の大和さん所の、一年に一回の謝恩祭でした。ご承知のようにもうそれこそ、実意丁寧の手本のような方ですね、合楽では。実に行き届いた信心が出来られます。もう本当にお祭りを奉仕させて頂いて、気の張らない事ね。お祭りが仕え良いです、眞心いっぱいで出来ておりますから。
 とても本当にちょっとした教会じゃ、あれだけの御大祭のような事は出来ない位な、賑やかなだけではない、有難い厳粛なお祭りでした。もう椛目の時代に、私が御結界奉仕させて頂いとったら、こゝで大和心と言う事を頂いた。それも書体も頂きましたから、頂いた通りの様な感じで、あり合わせの御結界の紙に、それを書き終わった所へ、大和さん達が二人で参って来た。
 大和ちゃ大和ち書いてあるけん、ははぁこれはあんた達に上げにゃんとじゃろうと言うて、それこそ皺のよった紙を皺を伸ばしてかいとる訳です。それを差し上げた事が有る。それを大事に大事に額に上げておられます。大和心と書いてある。私昨日もあちらへ参拝させてもらってから、毎年一回ずつこれを見る訳なんだけれども。本当これを頂いた時は、あゝだったなぁと思わせて頂いて、大和心と言う事は大体、どう言う事だろうと思った瞬間ですね、「お礼を言う心」と頂きました。
 お礼を言う心、これはただお礼を言う心というのはね、全ての事にお礼を言う心というのが大なんです大和心です。それはどう言う事かと言うと、天地との大調和と言う事なんです。天地と共にとか、神様と一体とかと言う事はね、その大天地と調和した時がそうなのです。神様と一体と言う事は、神様の働きの全てと一体になった時。神様の働きの全てに、御礼を申し上げる時なんです。
 これが神様と一体になった時なんです。有難か時だけの神様、嫌な時にはそうではないと言った様なのでは、いわゆる神様と一体とは言えません。神と一体天地と大調和を致した時。時々私共が調和する訳なんですね、有難いと思う時には調和しておる時。だからそれを段々広げていくと言う事が信心であり、自分の都合の良い時には、有難いけれども、都合の悪い時には、有難くないというのでなくて、その都合の悪い事こそ、実を言うたら、大事にしなければならない事だと言う事。
 そこで私は昨日その事を、皆さんに聞いて頂いたんですけれども。私共が全ての事に、お礼が言えれる事の為にです、許されてという事を、皆さん心掛けておかなきゃいけないと言うて話した事です。許されて許されて皆さん、今日こゝにお参りして来とるとです。お参りしようと思いよりましたばってん、頭が痛かった腹がせいたからと言うたら、もうお参り出来ないでしょう。許されて参って来てるのです。
 もう全てがそうです。ご飯を頂くでも自分が食べよるごとあるけれども、許されて食べさせて頂いておるとです。その証拠にはです、お腹はすいとる、食べたいと思うてもです。一碗の汁ですら、吸えないという人がありましょう。いやそれは米俵の中に、それこそ大黒様のごとある。うずまっておると言う様な人であってもです、例えば食道癌なら食道癌という病気を患うたら、どんなにお米の中にうずまっておっても、その一粒のお米が、喉を通さんじゃないですか。許されてなんです。
 昨日一昨日でした。飯塚からと言うて御夫婦で参って来ておる。ある大変難儀な問題を、お願いに見えておりました。それが大変おかげを頂いたと言うて、お礼のお届けをされると同時に、実は孫が今年から幼稚園に行かんならんけれども、幼稚園に行かんと言う。と言うのはね十分おきに小便に行くそうです。だから皆んながずうっと小便の事ばっかり言うとるです。はぁおしっこに行かんのさぁおしっこと。
 ずうっと言うとかにゃ出来んそうです。だから自分も神経がそれになってしまって高ぶってしまってですね、もう幼稚園ぐらいなると恥ずかしいという気持ちがあって、行かんと言うんだそうです。それで私は今のその事を申しました。これがあなた出らんち言うならどうするの、それこそ布団の上ででも、お座敷ででんよかけんで、出たらはぁおかげ頂いたと、あんたどんが言うに違いない。いうなら小便一つまらせて頂くでも、許されて出よるとですあれは。大小便でもそうです。
 許されてですからもう本当に気持ち良う、お通じのおかげを頂いたんなら、許されてだからお礼を言わにゃいくまいがと私が。もう今日から、私がお願いするから決して、小便まれてんなんてん言うちゃ出来んばいち、私が言いました。私が言うこつ聞けば、絶対おかげになる。もうこれは、全てが許されてなんです。ですから神様に許されて、これが出来ておるのであるから、その事に対して御礼を申し上げる。それが全ての事に御礼を申し上げる心が大和心なんです。
 いわゆる天地と調和した訳になるんです。不平不足を言うとったんじゃ、だから調和した心とは言えない。それを分かれば分かる程、先程申しましたように、神様の御恩恵というものが、深く分かれば分かる程です、広く分かれば分かる程、一切がおかげと言う。いわゆるこゝで御事柄と、成り行きを大事にすると言う事でもです。成り行きを大事にさせて頂くのであり、御事柄として頂くのであるから、頂いたものに対して、お礼を言わん訳にはいけんのだと言うのです。
 頂いたのだから御礼を申し上げる心。信心させて頂く者はね、今日はそういう心得、そういう心掛けが必要だと。実際は中々お礼が言えない事もある。けれどもですやはり御礼を、実感はなくても言わせて頂きよると、後であゝやっぱりあれもおかげであったと分かるです。昨日私一時間ばかり、もうそれこそせき殺すかと思う位にお腹がせきました。もう家内を呼ぼうと思うけれども呼ばれない。少し折り合いましたから、もうこんなにして私が食堂まで出て来ました。
 丁度上野先生がおりました。あんまり顔色が悪いもんだから、先生もびっくりしてから、家内をすぐ呼んでくれた。家内がお神酒さんをちょこに一杯、ついで持って来てくれました。もう本当にお神酒さんを頂かせて貰うてから、もう手も足も冷とうなってしまいましたから、家内が足を一生懸命こうこやってこすってくれました。そうするうちに、自然と、気持ち良くなってから、丁度一時間、ぐっすりや休ませて頂いた。目が覚めた時には、ほんに嘘のようにおかげを頂いた。
 いつもの事乍ら御神酒の、いうならばおかげというのは、大変な事だなと思いました。そして昨日私は思った事は、もう愈々せき殺すごと、苦しい時にはね、金光様のこの字も出らんです。本当に恥しい事ですけれども、出らんです。少し楽になると、金光様ち言いよるけれども、もう本当に苦しい時には、金光様のこの字も出らん。私共のそう言う事がありますけれども、そこが御神米であり、又は御神酒であり、又はお取り次を願うと言う。いわゆる垂れ木一本にすがるという道が、お道には有るのです。
 お道の信心には。有難いものも何もありません。けれどもそこにお取り次を頂くとか御神酒を頂くとか、御神米を頂くとかして、おかげの頂けれる道が、金光教には有るです。そこん所をです、だから例えば心が真っ暗になるような時であっても、お取り次を頂いて。これは昨日あちらで申しました事ですけれども。もうあそこは大変、ほんな田圃の中ですもん中島という所は。
 北野の町じゃありますけれども、ですから実に静かです。だからこんな静かな所で、一日の御用を終らせて頂いて、家族中の者が御神前に出らせて貰うて、本当に芯から心ゆく迄御祈念させて貰うならば、一日の事を振り返ってみて、あそこも大和心に欠けておった、あそこもお粗末であった、御無礼であったと思う時に、家族中の者が一心に御祈念させて貰い、信心させて貰いよるとです。
 あゝあそこも相済まん事であった、こゝも御無礼であったと言う所を、心ゆく迄お詫びをさせて頂いて、大和心を取り戻しとかなければいけない。あそこはあんなに腹どん立てる事じゃなかった、お礼を申し上げねばならない事に、腹を立てておった。あそこではあんなに、いらいらすることは要らんのに、いらいらしておったとその事が、みんなお詫びされて、心の中にお詫びという事によって、大和心を取り戻させて頂いて、お礼を申し上げさせて頂く心を、作らなければいけませんよと、いう事を申しましたが。
 これは皆さんの場合であっても同じ事。大和心。大和心とは一切の事柄に、一切の御物に御礼を言う心が、又そういう心の状態になった時に、それは大和心であります。それを、和賀心とも言う訳です。それを天地の神様と一体になる。大天地と調和した時の姿であります。そこん所を私共が、そういう心得心掛けをもって、信心をさせて頂かなければいけんのです。親の心を子知らずと有りますが。そういう信心が段々そういう心掛けをもって信心させて頂いているうちにです。
 親の心も愈々分かるようになり、親孝行もさせて貰わなければおられない事になり。おかげを頂いて行けれる、いうならば何時どう言う様な事があってもです。心に光を頂かせて貰う心得というものを心得て、信心の稽古をさせて頂かなければなりません。これは月のうちに、何日かは、闇の夜があるように、私共の心の上にも、本当にお先真っ暗と思うたり、心が暗くなったりする事があります。
 そういう時の為に、そこをそ信心辛抱させて頂いて、月入らば、また輝ける日の出かなと、日の出を待つ事も有り難い。辛抱する事も有り難いけれども。そこをです、たとえ停電になっても、他の光がこゝにあれば、停電になっても、不自由せんで済むだけの程しのものを、私はお徳と思う。そういうお徳を頂くという事の、信心を、本気でさせて頂いとかなきゃなりません。
 そん為にはまず神の恵み、御恩恵を知るのではなくて、御恩恵を御恩恵として悟らせて貰うおかげを頂かなければならん。神の恵みを人知らず親の心を子知らず。是は神様のお嘆きの言葉だと思うです。お礼ば言わんならん事に、腹を立てたり不足を言うたり、まぁ何と気の毒な氏子であろうかと、神様のお嘆きの言葉が、是だと思わにゃいかん。神様を嘆かせて、おかげの頂ける筈はないのです。こゝん所のおかげを頂いて行きたい。
   どうぞ。